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オペラいろは歌留多「の」

 オペラ・ファンの皆様、今日は。今年もいよいよ大詰め、今年は何と言っても、「ロッシーニ元年」でしたね。2つのセリア、共に素晴らしい舞台でした。特に「マオメット二世」には、何と言う賛辞を呈してよいか、言葉に窮します。もちろん、音楽が、ですよ。それをこともあろうに、「中途半端な音楽」ですって? 人間ですから、もちろんオールラウンドではありません。   
 ま、ロッシーニ理解不足を語るに落ちたものならば、これまたご愛嬌ですか。
 来年はどうやら、カルチャー・ショックを受けるような来日公演は無さそう。その分、ただひたすらに音楽を聴くしか術はありませんが、ロッシーニの知られざるセリアのCDを集めて聴くと致しましょう。陽の目を見るのを待っておれば、何時になることやら。このままでは、フローレスでもキャストに組み込まねば、この島国ではチケットが売れないでしょうから、せっかく道が出来たROFも、再来日はありますまい。
 スカラ座で今年1月に上演された、ドニゼッティの《マリーア・ストゥアルダ》が、幸いNHK
BShiで放送されました。感心に、間も無くBS2でも見られるそうですから、早々と地デジ対応
されていない向きも、お楽しみになれましょう。
 このチューダー・クイーン3部作随一の傑作を、こんなステキなライブ映像で見られるなんて! デヴィーアは何でも還暦だそうですが、その自然体のベル・カントはまったく衰えていませんね。このオペラほど、最近「歌手の品格」を実感させてくれた映像はありませんでした。
 オペラ化に際して、何がお手柄と言って、エリザベッタを最初に出したアイデアに脱帽します。書くのも空しいのですが、もしマエストロ・ガヴァツェーニが、《アンナ・ボレーナ》よりもこのオペラをカラスに奨めてくれていたら――そう思わずにはおられません。シミオナートのエリザベッタ1世。思うだに、その適役ぶりが伺えます。カラスの歌いぶりも!
 元来、イタリア人は、この両者が実際は対面しなかったものを、シラーが会わせた、そのアイデアがお好きと見えて、女流劇作家による2人芝居がありましたね。日本でも、麻実れいさんと白石加代子さんの顔合わせが見られました。
 このオペラの理解に相応しい本が出ました。アレクサンドル・デュマの小説『メアリー・スチュアート』田房直子訳、作品社。
 小説とは申せ、何も大胆不敵なフィクションでは無く、歴史実録物。あのツヴァイクの2巻本が、いささかお堅いのに比べ、これはすこぶる読み易い。大詰め、処刑に臨むメアリーの、服装や装身具などの細かな描写の見事なこと――その面白さ。

 オペラいろは歌留多 『の』 《ノルマ》をば至高のオペラと覚えたり

 もしもぼくが、絶海の孤島へでも島流しにされて、1曲だけオペラのCDを持って行くことを許可されたら、それはやはりモーツァルトの《魔笛》だろう。それは譲れない。これは変えようが無いが、もう1曲と言われたら、何にするだろうか。ワーグナーだろうって?
 ベッリーニの《ノルマ》――この2つのオペラがあれば、もう鬼に鉄棒ではないだろうか。神様に欲張りをお許し願って、5本のオペラを持参させていただくとすると――ヴェルディは《ドン・カルロ》、プッチーニは《トスカ》、ワーグナーはRINGはずるいとすれば、1曲に絞って《神々の黄昏》にしよう。この5作のオペラが、ぼくの究極のチョイスである。え、次点は何かと言われますか――それは決まっています、ムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》だ。
 あのワーグナーが、唯一その芸術的香気を讃えたという《ノルマ》。71年の第6次NHKイタリア・オペラが、果敢にも取り上げた《ノルマ》――。日本初演の栄を担った、ギリシアのソプラノ歌手エレナ・スリオティスが、GPは絶好調と伝えられながら、どうした訳か予想に反した絶不調で、ぼくはこの至高のオペラを、心行くまで楽しむ訳には参らなかった。
 9月1日のあの日――第1幕で歌われた「清らかな女神よ~カスタ・ディーヴァ」は、まったくのところ、苦しげに歌われ、「カスレタ・ディーヴァ」だった。
 アダルジーザを歌ったフィオレンツァ・コッソット(初来日!)の、輝くばかりの声との対比に、ぼくは言葉を失ったものだった。
 これ以来、《ノルマ》はぼくたち日本のオペラ・ファンには、因縁のオペラとなった。その後藤原歌劇団が、林康子さんのタイトル・ロールで邦人による日本初演を敢行したが、ぼくは見逃している。去る03年はどうした風の吹き回しか、3組もの《ノルマ》が鉢合わせしたことで、記録されてしかるべき年となったが、ぼくが見たステージは、初来日のシチリア島はカターニア、ベッリーニ大劇場による公演で、会場はびわ湖ホールだった。
 
 何と歌い甲斐、演じ甲斐のあるオペラ!
 演出などはほとんど見るべきものも無い、簡素というはおろか、殺風景なものだったが、タイトル・ロールを歌った、彼女もギリシア出のソプラノ歌手ディミトラ・テオドッシュウの熱唱によって、ぼくの耳の中で、漸くこのオペラの初日が出たものだ。
 難物のアリア「カスタ・ディーヴァ」だけを、何とかクリアしたという風なものでは無くて、2幕以後もこの至難のオペラのヒロイン像を、くっきりと歌い通し演じ通してくれた、この若いプリマ・ドンナに、今でも拍手を送りたい。
 この時、つくづく感じたことがある。それは、こんな歌い甲斐演じ甲斐のあるオペラは、他に無いのでは無かろうか、ということだった。
 カラスはこのこのオペラ、この役を、生涯87ステージ歌い通したというデータがあるが、完璧に歌い終えた時のディーヴァが体得した満足感は、掛け替えの無いものだったに違いない。そしてそれは聴き手にも、そう感じさせるオペラなのである。
 カラスの有名なゴシップの中に、こんなものがある。曰く「わたしはシャンパンで、テバルディはコカ・コーラよ」――ぼくは幾らなんでもカラスがここまで傲慢無礼な言辞を弄する嫌な女だとは思いたくは無かったものだが、真相はやはり無責任な週刊誌の歪曲情報だった。カラスはこう言ったというのだ――テバルディとは、アイーダやレオノーラ、トスカはともかく、ほとんどレパートリーが競合しない――ノルマはもちろん、ルチーアやアミーナ、またアンナ・ボレーナなどなど――だから、ライバル視されても比べようが無いし、恰も「シャンパンとコカ・コーラを比較するみたいなものよ」と言った言葉を、短絡的に一方的に誇大報道したものだそうだ。週刊誌のでっち上げは、何も洋の東西を問わないのだ。これには安心しましたね。
 不滅のレコード録音を手掛けたウォルター・レッグは、カラスはユーモアを解しなかった、と書いている(彼の夫人シュヴァルツコップフが書いた『レッグ&シュヴァルツコップ回想録・レコードうら・おもて』河村錠一郎氏訳、音楽之友社刊、86年)。この本に収められたレッグの文章は、カラスと仕事をした人の書いたものとして興味深いが、ここで考えてみよう。およそ世の大スターの中で、洒落やジョークが通じる女性なんて、いるものだろうか。ぼくが面識のあった人で申せば、美空ひばりさんにもし冗談でも言ってみたものなら「何よ」と睨まれるくらいが関の山だろう。もっとも、そんな理解は無くとも少しも構わないのだ。カラスにユーモアや喜劇のセンスが欠けていたところで、そんなものはどうでもよかった。愛想が悪かろうが、愛敬が無かろうが、カラスのようにノルマやそれにヴィオレッタが歌えれば、それで充分だったのだ。他に一体全体何を望むだろう。
 レッグ先生は更に面白いことを書いている。例のテバルディとの軋轢を解決するための手立てとして、《ノルマ》で2人に共演させようとしたのだ。

 まぼろしの企画とは
 
当時のスカラ座のギリンゲッリ支配人の承諾の下、ノルマとアダルジーザで2人のディーヴァを1つの舞台に立たせる――こんな破天荒なアイデアに、意外や意外、カラスは大乗り気だったという。反対に、今お1人のディーヴァは、「セコンダ・ドンナ」つまりプリマに対して2番手を歌う年齢は過ぎてしまいました、と「チャーミングな断り方」をした。ここで面白いのは、カラスである。彼女の悩み、決断をしかねたのは、どちらが先に主役、つまりノルマを歌えばよいか、だった。最初に完璧に歌って除けて、相手をたじろがせる方がよいか、お手並み拝見とて、後に回った方がより効果的か――カラスにはこの結論が即断出来なかった、と言う。これって、誠にもってカラスらしい考え方で、むしろユーモラスではありませんか。

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