オペラいろは歌留多「お」
皆さん、今日は。素晴らしい新年をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。今年も、いろいろなオペラ・シーンがぼくたちの眼前に立ち現れることでしょう。
昨年はまさしくロッシーニ元年でしたね。それにしても、1部の新聞が掲載した演奏評のロッシーニ理解不足は一体何なのでしょうか。それはぼくたちにとっては(お書きになった諸氏も含めて)ロッシーニのセリアは初体験であったことは事実でしょう。ワーグナーやR・シュトラウスに比べて、経験不足であったことでしょう。しかしだからと言って、「中途半端な音楽」と断じてよろしいものではありません。語るに落ちると言いますが、ご自身のロッシーニ理解が中途半端であったことを、これは知らぬうちに白状されたものでしょうか。識者がピント外れ、と思う「みぞゆう」の現象でしたね。新聞のデスク氏も、これからは餅は餅屋に注文して欲しいものですが。
新年の話題に相応しいものではありませんので、これで打ち切り。
オペラ歌手の訃報、そのニュース性の理解の無さは、何も今に始まったことではありませんが、ドイツのドラマティック・ソプラノ、クリステル・ゴルツさんが亡くなっていました。昨年11月15日、96歳、オーストリア、バーデンにて没。
ぼくは残念ながら聴き損ねましたが、日本初演のサロメを歌った人として記憶されるべき名歌手ですね。大阪国際フェスティバル第5回、1962年。ヘロデがフリッツ・ウール、ヨカナーンがヨーゼフ・メッテルニヒ、マンフレット・グルリット指揮の東京フィル、と記録されています。
ぼくの手元に、オトマール・スウィトナーが指揮した全曲録音があります。今もカタログに残っていますが、スーパー・サウンドのニルソン/ショルティ盤より、ぼくが良く聴く録音です。
オペラいろは歌留多 『お』 オペラ評論に歪(ひず)みあり
ぼくたちがこれまで折りに触れて読んできた音楽評、それもオペラの批評。それは公演評であり、月刊誌のLPレコードやCDの論評であったりするが、そこには大変な偏見と独断――いわば一種の〝歪み〟があった。人間が書くものだから、評論とて公正とかは無理、所詮はその人の主観だ――そう実感しているのだが、中にはこんな考え方、捉え方もあったのか、と思わせるものがあって、それだからこそ読む人のためになる評論が成立する。何も談合して、誰もが納得ずくめのものを望むことはしない。そして、その論旨が仮に人の意表をつくものであっても、読み手を納得させればその評論は立派に成立する。
一般に読み手には、それだけの度量が備わっているものなのだ。清濁併せ呑む――これは読む側の自由である。宗教家の信者折伏とは違うのだ。
ところが、ここに厄介なものが介在する。それが真っ当ならば万々歳なのだが、そうは問屋が卸さない。
権威、がそれだ。そしてとかくやくざの親分の、居丈高な威張り精神に類するものになり兼ねないところに、問題がある。
日本には、数誌の音楽雑誌がひと頃存在した。しかし、その中身たるや何れも同工異曲で、書き手も同じだから、論調に巾が見られない。要するに、各誌の切り口は金太郎飴の如しだ。だから、一誌また一誌と姿を消すことになる。中に、外国の歴史ある音楽雑誌の日本語版を発刊する、新潮社みたいな殊勝な出版社があって、イギリスのGramophon ジャパンが出た。レコード批評は主として、本家の記事を翻訳したものだが、何でも筆者が馴染みではないとて、売れなかった。確か4万部発行して、7割が損益分岐点だが、1万2千部程度しか売れなかったとかで、1年そこそこで廃刊されてしまった。
捨てずに置いている雑誌の功徳
ぼくの手元には、99年の12月の創刊号から翌年同月号の都合13冊が残っている。01年1月号の予告には、「カルロス・クライバーの伝説と真実」なる魅力的な特集記事のタイトルが躍っているが、手元に無いところを見ると、発刊されなかったものか?
レコード・レビューの中に、今読み返してみて、大変参考になる月評があり、手放せない。
ロッシーニの批評(再発売を含む)がそれで、特集では《薔薇の騎士》の聴き比べや、マスネのオペラ特集なんかがあり、これも大いに参考になっている。
レコード芸術誌が、最近は海外盤の紹介にもスペースを割いていて、国内盤の月評欄よりも面白いが、くだんのG誌ではそんな区別も無く、店頭に並ぶ輸入盤をチョイスするのに、これは大変役に立った。
皮肉なことに、特集も含めて、日本人が書いた記事にめぼしいものが少なくて、これはいっそのこと翻訳一本槍、その意味の日本語版に徹した方がよかったかも知れない。ぼくのような読み手には、とかく国内の評価と違う論調が、新鮮でありがたかった。
今は無い雑誌のことをあれこれ書いても空しいから止すが、ぼくたちはとかく1人の批評家のために、偏ったレコードを聴く習慣を押し付けられて来たものだ。例を上げると、ジョーン・サザーランドを徹底して嫌った某氏のために、国内盤がともすれば発売されなかったものだ。お陰で、彼女のチャーミングな歌唱が楽しめるヴェルディの《群盗》なんかがお蔵入りした。もう1人、べヴァリー・シルズがこれまた無視された。
一端権威(実はそんなものは無いに等しいのだが)が確立すると、編集部が先生の威光に恐れをなして、異見を封じ込めてしまうこと――これが問題なのだ。この先生の評価は、まったく個人的な嫌悪感の産物で、およそ評論家の持つ気概とは別物なのだ。もう1人、モンセラート・カバリエもその伝で無視されかけたが、タイミングよく来日し、名歌手ぶりを遺憾なく発揮してくれたために、難を免れた。
その先生は、CD時代になってやっと国内盤が出た、NYでのコンサート・ライブを評して、この場にいなかったのは幸せだった、とお書きになったものだ。サザーランドにマリリン・ホーン、それにパヴァロッティが加わった、ベル・カント・オペラのアリア大会のライブ録音。個人の好き嫌いはご自由だが、およそ批評家の書く文章ではない。こんな歪(ひず)んだ評論が、実はレコード雑誌のオペラ評をリードして来たものだ。
レコード評だけかと思いきや
雑誌や新聞で何を誰に書かせるかは、編集長が決定するのだろうか。昨年08年に初来日したロッシーニのオペラ・フェスティバルの、新聞紙上での公演評が、識者たちの顰蹙を買ったのは記憶に新しい。これはぼくのような一オペラ・ファンが読んでも「?」と首を傾げる妙なもので、およそプロフェッショナルな音楽評とは思われない。ロッシーニが「未熟」な作曲家だとは、どんな理屈なのだろうか? 新聞の学芸部デスク氏は、まだしも例の権威評論家氏に原稿を依頼した方が、ずっと的を射た演奏評が得られただろう。
ぼくはわざわざ外国誌を取り寄せることはしていない。だから、G誌がその後シルズの死をきっかけに、小さな特集記事を載せたかどうかは知らない。しかし、テアトロ・コロンでの《ルチーア》の、音質のいいライブ録音などは、月評で取り上げたに違いない。因みにこのCDのレーベルはWHRA(West Hill Radio Archives)。75年の歴史的なMETデビューとなったロッシーニ《コリントの包囲》も、そろそろ出て来てもよいところだ。
オペラ歌手なんぞには何ら意識の向かぬ新聞デスク氏は、だからあのテバルディが亡くなった時だって何の感慨も湧かないから、追悼文掲載まで頭が回らないし、肝心のNHKにしたところで、何も報道しなかった。
こんなオペラ後進国で、評論家諸氏の権威とやらを尻目に、知識豊富な人は今や独自の理論世界をネット上に展開している。音楽雑誌のお世話にならずとも、ロッシーニやドニゼッティの未知のオペラの優れた論考が、ネット検索すれば簡単に見ることが出来る。
およそ日本語で読めるオペラ解説は、外国ネタの孫引きがほとんどだと思ってよい。《魔笛》のシカネーダーによる台本を褒めるような記述は絶無だし、それを評価した名演出家フェルゼンシュタインに気が付いた風でも無い。何時までたっても《イル・トロヴァトーレ》の台本はつまらないと片付けたままだし、《マリーア・ストゥアルダ》の台本の、エリザベッタをまず先に出したアイデアを讃える声も聞こえない。
録音だってしかり、だ。カラス唯一のスタジオ録音による《ラ・トラヴィアータ》は無視されたままだ。G誌の月評のように、再発売を取り上げて、少なくとも第3幕に聴く若きカラスの非凡さを讃え、何よりその声の輝かしさを称揚することも無い。ショルティの《トリスタンとイゾルデ》に聴かれる、ウィーン・フィルの美音も無視され、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウのイタリア・オペラの歌唱は、おしなべて何時までも違和感がある、という評価のままだ。
一様に、アメリカ人歌手の評価が低いのもわが国の常で、テノール歌手のリチャード・タッカーとて、シルズとご同様だろう。
近年になって、新聞などで音楽評の筆者の肩書きに、音楽学、という表記が目立つ。一体「音楽学」なる学問は、何時の頃から出て来たものだろう。ぼくの使っている「広辞苑」は第2版(74年刊行)だが、そんな項目は見当たらない。今では、音楽学博士という人は、何人いらっしゃるのだろうか?
最近の音楽評論や読み物が、論文書きによって書かれるようになり、面白く読めるものが少なくなった。新聞の演奏評しかりである。
長年音楽雑誌に書いておられる諸氏は、この辺で奮起していただきたいものだ。もちろん中には気恥ずかしい紋切り型の褒め言葉しか書けぬご仁もおられよう。しかし、論文調よりは救いがあるだろう。カラヤンとフルトヴェングラーを比較したり、クレンペラーを褒め称えても、もう少し表現力がおありだろう。哲学用語の濫用では、音楽読み物は書けないのだ。もし医者が音楽本をお書きになり、クランケやオペなどの医学用語を多用したら、誰も読もうとはしないに違いない。
オペラの権威と自他共にお許しならば、歌手の品定めもほどほどにして、ロッシーニやドニゼッティのオペラの解題本でも、マンネリ雑誌の沈滞を打破する意味で、連載しては如何なものか。その際、決してお奨め録音ガイドをお書き召さるな、とお願いしておこう。
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