オペラいろは歌留多・よ

オペラいろは歌留多「よ」

 オペラ・ファンの皆さん、今日は。今年も早くも大詰めですね。例年にも増して、産地偽装のニュースの多い1年でしたが、超高級料亭・吉兆のお話なんか、ぼくたちには縁無き話題でしたね。え、毎年御節を取り寄せていらっしゃる? 但馬牛だと思って、味噌漬けを
お買いになっていらした? これは失礼しました。ぼくは生まれも育ちも、兵庫県の人間(神戸市。今は西宮市在住)なのですが、格別に但馬牛で無ければ上手くない、なんて意識したこともありませんし、周りの肉好き人間から殊更に聞いたこともありません。佐賀牛でも、これは「当店が厳選した特上の牛」あるいは「当店が独自に飼育させた牛」として売っておれば、何ら問題は無かったのと違いますか。ブランドの威光は、まずお店の名前でしょうが…。日本人はすべからく(かく申すぼくもでっせ)、ブランドに弱いからなあ。それに何もわざわざ牛肉の味噌漬けなんて食べなくても、牛の美味しい食べ方はおまんがな。
 余計なことはさておき、我がオペラの世界にも、産地偽装ならずとも、名称偽装はタンとありまっせ。スポレート実験劇場がローマ・イタリア歌劇団というのがあったし、レニングラード国立歌劇場というのも、産地は偽装していないものの、日本だけの通り名でんな。もっとも、今回の「イーゴリ公」はよろしおました。舞台の作りも、シンプルながらきちんと造られてましたし、白いパネルを立て回して、リース屋から借りてきたみたいな道具を置いた殺風景なワーグナーとは一線を画するものでした。衣裳も普段着式では無かったし、眼目の「ポロヴェッツ人の踊り」も、メンバーの少なさを感じさせぬ仕上がりでした。背後にいた兵士たちが、手にした槍を動かしながら、単にそこに突っ立っているばかりでは無かった――そんなところにも気配りが見られ、お安いツアー・カンパニーに見られがちのプアーなステージではありませんでした。フェスティバルホールは、何しろS席\16,000でっせ。来年のマリインスキー劇場公演は、\50,000やもんな。え、規模とグレードが違うって? ふーむ――でも、今回の舞台は、かつて見たNHKスラブ歌劇や伝統的大舞台のボリショイ・オペラと比べて、決して見劣り聞き劣りするものではありませんでした。立派な『イーゴリ公』だったと思いましたよ。ところで、有名な音楽のバレエ・シーンの表記ですが、「ダッタン人の踊り」というのは間違いなのだそうです。あれは、韃靼人に非ず、ポロヴェッツ人。ダッタン人つまりモンゴル人は別の民族。ロシアでは、何でも遊牧民族はすべからく「タタール人」と呼びならわし、民族の区別が無いらしい。日本の解説が、何時の頃からダッタン人と決め付けてしまったものか、不詳ですが、1度お手持ちのこの音楽だけを演奏した「ロシア音楽集」かなんぞをご覧あれ。一目瞭然のはずです。これはいわば産地誤認でんな。

 オペラいろは歌留多 『よ』 世を去ればどんな人でも忘れられ

 人は生きているうちが花だ。偉い人、有名な人、どんな人も、この世から消え去れば、後は朧(おぼろ)――『ドン・カルロ』の冒頭の歌詞では無いが、「最早もの言わぬ塵ひじに過ぎぬ」のだ。
 新聞の訃報、それも外国人のベタ記事を見ていて、何時も不思議に思うのだが、マニアックなジャズ・ミュージシャンや、余程の映画通でも知らぬ気な脇役の映画俳優なんかは、何とか拾ってもらっているのに、ことオペラ歌手というと、一時代を歌い抜いたスター歌手といえども、ベタ記事一つ出ないことがある。編集デスク子の無智と言ってしまえばそれまでだが、今年07年7月にはあのべヴァリー・シルズレジーヌ・クレスパンが続けて亡くなり、お二人がものの見事に無視されてしまった。パヴァロッティの場合は、さすがにそんなことは無く、例外のトップ記事扱いだったが、今度は追悼文で首を傾げさせてくれた。
 要は、この若い頃格別な存在だった名テノール歌手の、そのポイントを押さえられる書き手に恵まれなかった。誰に書かせれば、ツボを心得てくれるかが、お分かりにならなかったとしか思えない。僅かに、林康子さんが彼との思い出を語ったもの(日経)だけを、ぼくはスクラップ・ブックに貼り付けた。
 過去、カラスは別格中の別格として、例えばテバルディだってニルソンだって同じ扱いで、まだベタ記事が出ただけ先のお2人よりはマシだった。
 ニルソンのあの伝説的なイゾルデは、大阪だけの公演(第10回大阪国際フェスティバル)で、そのためにも、朝日の大阪版だけでも書いたってバチは当たらなかったのだ。
 この現象は、CDやDVDの出現事情ですぐに、忘れられる人かどうかが判明する。テバルディだって、ニルソンだって、大々的に追悼盤の出される気配は今のところ無い。

 カラス1人が何故もてる
 いくら「ああ、そはかの人か」と名唱を残したとは言っても、どうしてカラスばかりがもてはやされるのだろう。
 フランスの女流作家マルグリット・デュラス(1914-96)が面白い短文を書いている。まず、カラスの名前Callasは、aが一字足りないけれどもスカラ座La Scalaのアナグラム(綴り換え)だと言う。。面白いのはこのことだけに非ず、カラスを稀代の「醜女(しこめ)」だと言ってのける。もっとも、これはいささか反語的表現だが、その言い方の例として、後2人の名前を書く――マレーネ・ディートリヒとブリジッド・バルドーだが、この2人とカラスの違いは、流行的存在では無かったと、ズバリ。ぼくはこれを読んでいて、カラスと同じ流行の存在では無い「醜女」を、もう1人加えてみたいと思った。誰あろう、エディット・ピアフだ。そして許されることならば、今1人、日本人をプラスしたいのだ。そう、美空ひばり。ピアフは小雀、ひばりは雲雀、カラスは? カラスが初来日したのは73年のことだが、ある声楽コンクールの特別審査員としてだった。この時入選者を歌わせて指導する、セミナー・コンサートなるものが開催された。お客さんを入れて、ぼくたちの見ている前で、ディーヴァが細かく教えるのだったが、この時こんなジョークが生まれた――歌わぬカラスはサギだ…。
 デュラスの文章は、翻訳しても400字詰め原稿用紙3枚にも満たぬ小文だが、これはファッション雑誌「ヴォーグ」に掲載され、『アウトサイド』という本に収められた。翻訳されている(同題、佐藤和生氏訳、晶文社刊)。
 カラスが独り淋しくパリのアパルトマンで亡くなって早くも30年だ。お得意だったヴィオレッタ。彼女が声を限りに歌った「パリという、この人で一杯の砂漠で見捨てられたわたし…」――とそのままの死だったが、世間は見捨てなかった。残したスタジオ録音は、ひっきりなしに手を変え品を変えて商品化された。貧しい音質のライブ録音も、徹底的に掘り尽くされて、主なものは音いかんに関わらず、メジャー・レーベルの正規盤として発売された。
 映像においても、それは例外では無い。ニュース・フィルムの断片であれ、素人撮影のボケ映像であれ、ちょっとでも彼女が映し出される映像が見つかると、編集され商品化された。そして、この現象は今尚続いてるのである。
 彼女が残したスタジオ録音は、初期のイタリア・チェトラやリコルディなど、他社の録音までも集成されて、ワン・ボックス69CDが発売された。ご念の入ったことに、お買い得ボックスと、超豪華仕様の限定ボックスまで用意される始末だ。
 こんなことは、あらゆる音楽家、舞台人のうちでカラス1人の現象なのだ。どうして?

 思い出してよ、ぼくたちの声も!
 思うに、カラスをEMIに取り込んだウォルター・レッグ氏は、こんなにも永きにわたって、カラスが売れ続けるとは思わなかったのではありませんか。もちろん、会社も同じだろう。何しろビートルズ専売のレコード会社だったのだ。オペラのステレオ録音なんか、最初は目じゃ無かったレコード・メーカーだ。お陰で、「この歌手はオーケストラみたいに歌う」とスカラ座の観客を唸らせた、そんなディーヴァの声を録り損なった。テバルディの、あの声の輝き、ツヤっぽさ、声の厚みを見事に録音したデッカとはそこが違った。
 ところで、07年は、エットレ・バスティアニーニ(1922-67)が没後40年、マリオ・デル・モナコが25年に当たっていた。スカラ座の黄金時代を歌った3人の歌手たち――何とアルファベット順に亡くなって行ったとは!
 この2人の顔合わせを実現させたデッカはもちろんのこと、名バリトンが早世するなんて夢にも思わぬまま、よくぞヴェルディ4タイトルとドニゼッティ1タイトルを録音してくれたDG。
 この両社からも、大々的な2人の追悼盤の企画は聞こえてこなかった。ORFEOが放送局の原テープ起こしをした『アンドレア・シェニエ』を手にしたが、これは昨年の制作だ。63年のNHKイタリア・オペラの『イル・トロヴァトーレ』。もしあの時予定通りにデル・モナコがやって来て歌ってくれておれば、映像はきっちりと残されたであろうに。何しろ、ステッラ、シミオナートと揃ったのですからね。これでデル・モナコだったら、スカラ座のシーズン・オープニングの顔触れだ。こんな配役を実現しようとした、アントニオ・ショーヤット氏なるご仁は偉かったね。どれ程のコミッションを懐に入れようとしたか知れぬが、歌手集めの腕前は凄腕だったし、何よりバラツキが無かった。
 この時デル・モナコは、もう1本『西部の娘』にも出るはずだった!
 彼について、大変興味深い事実が書かれた本が出版された。『伊藤敦子 望郷のミラノ』(千厩ともゑ氏、澤田出版刊・民衆社発売)と題した1冊は、1人の日本人ソプラノ歌手を描いたドキュメントだ。昭和12年に30歳の半ばで、2人の子供を人に託してまでもイタリアに渡り、スカラ座を目指したソプラノ歌手がいた――そして、その伊藤敦子さんこそは、デル・モナコが本格的なデビューとなった41年の年末、ミラノのプッチーニ劇場でピンカートンを歌った時のチョーチョーサンだった!
 デル・モナコ、御歳26歳。当時は伊藤さんの方が高名だった!
 59年のあの『オテッロ』の時の、お初記者会見で、彼はこの事実を告げ、自分と日本との深い縁(えにし)を語ったという。

 忘れられようしている名歌手たちにもっと光を!
 
デル・モナコは聞くところに寄れば大層な飛行機嫌いで、船便だったそうだ。この頃、東京が終われば必ず大阪公演があった。フェスティバルホールは既に出来ていた。ホール事情の西高東低現象は、始まっていた。
 ぼくの手元に、1枚の興味深い写真がある。場所は神戸港らしい。名歌手を神戸にエスコートした人物がいて、ぼくはそのご子息からこの記念すべき写真をいただいた。大阪の公演が無事終わり、後は神戸港を出航する、イタリア行きの船の出を待つばかり。Fさんは彼を誘(いざな)って、神戸の元祖リストランテ・イタリアーノ「ドンナロイヤ」へ故国の味を賞味させるべく日参されたそうだ。もちろん、大震災前の、旧店舗のことだ。当のお店に、今はこの思い出を語れる人がいないのは残念だが、どう見ても大テノールに似つかわしくなさそうな貨客船(?)の前で、Fさんとお仲間たちが写った写真は、今や名歌手を偲ぶ何よりのものだ。
 人間とは妙なもので、デル・モナコを嫌う人も少なくない。荒っぽくて、ぶっきらぼうとおっしゃる。またバスティアニーニを、性格的バリトンでは無い、として貶す人がいる。リゴレットなんか「仁(にん)」じゃない、と言う訳だ。見てくれも美しすぎる? 身体不自由の道化が2枚目では不都合ですかな。何しろ、名うての女たらしの公爵が見初める、ジルダの父親ですぞ。男前で何がいけませんかな。 ジェラールはバルナバみたいな小悪党に非ずだし、スカルピアは、何も凄めばよいというものでも無い。レコードで聴く絶品のフィガロ! 「何でも屋のアリア」の、あのノリが素晴らしいね。
 そこで大いなる疑問。人はどうして彼にドン・ジョヴァンニを歌わせようとしなかったのだろう――歌う機会を与える前に、天は彼をお召しになったものか?

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